ボクサー・津端ありさ選手「デュアルキャリア:看護師とボクサーの二刀流」【前編】
2020年、世界は新型コロナウイルスの影響を受けたが、新たな挑戦を始めた人々もいた。
津端ありさもその一人だ。総合病院で看護師として働く一方で、ボクシングで才能を開花させた。
しかし、彼女の挑戦はそこで終わらなかった。看護師としてのキャリアを全うしながら、スポーツの世界で頂点を目指す「二刀流」の道を歩むことになる。
Contents
看護師を目指したきっかけは父親からの助言
津端が看護師としてのキャリアを選んだきっかけは、意外にも「やりたいことがない」という状況からだった。
中・高校時代、津端はバスケットボールに打ち込んでいたが、スポーツを生業とする将来については、特に具体的な計画があったわけではなく、何となく大学へ進学することを考えてたが、父親からの助言がきっかけで看護師の道を選ぶことに決めた。
「やりたいことがないなら、看護師の資格を取ればいい」
父親のその言葉は、実用的なアドバイスだった。
さらに、「バスケで大学に行ったとしても、その後の生計を支えるだけの収入を得るのは難しい。まずは手に職をつけてから、お金を稼ぎ、その後で好きなことを追求するのも遅くはない」と助言してくれた。
看護師なら、安定した職を得ることができ、人の役に立てる仕事であり、医療の分野は常に需要があり、将来性も高い。
このアドバイスを受けて、津端は看護師という職業について真剣に考え始め、高校卒業後、看護学校への道を選び、看護師としての資格を取得するために必要な勉強を始め、看護師の道を進む。
看護師としての成長「自分が考える”できる看護師”は違っていた」
勤務するクリニックでの様子 【写真:本人提供】
看護学校卒業後、総合病院の消化器外科に配属された期間は、多くの学びがあった。
初めのうちは身体的なケアに重点を置いていたが、次第に看護師として心のケアも非常に重要であることに気がついた。
看護師は医師よりも患者との接触時間が長いため、心のケアが職業の大きなやりがいの一つとなっている。
「看護師としてのキャリアを振り返ると、私が最も成長を感じたのは総合病院の消化器外科に配属された2年目でした」
看護師としての自分の成長を感じたエピソードがある。
「看護師1年目では、”定時で帰る”という目標を強く意識しました。効率よく時間内に業務を終えることで、同僚や先輩に迷惑をかけずに済むので。それが”できる看護師”と考えていたからです」
自分の業務が早く終わった場合は他の人を手伝うことで、チーム全体の仕事の効率を上げることに注力していた。
2年目に入り、病棟で働くベテランの先輩看護師が、環境整備やリネン交換を非常に丁寧に行っている姿勢を見て、「”看護とはなにか”ということを深く考えさせられました。私のこれまでの看護の仕方は自分軸になっていた。自分が考える”できる看護師”は違った」
自分の看護のスタイルについて大きな気づきを得たのと同時に、「今まで患者さんに対して失礼なことをしてしまった」と反省した。
それまでの津端は、効率よく作業をこなすことに集中していたが、患者さん一人ひとりに合わせたきめ細やかなケアの重要性を理解し、細やかな配慮が、看護の質を大きく左右すると気付かされた。
その後、患者さんのニーズに応じた看護を心がけるようになり、仕事に対するアプローチを変えていった。
「患者さんに”忙しい” 様子を見せることなく、必要なケアを提供するようし、2年目には後輩を持つようになり、”見られる背中を意識する”という新たな責任感を感じるようになりました」
このようにして、看護師としての視野を広げ、患者さん一人ひとりのニーズに寄り添うことの大切さを実感した。
看護師の日々「患者さんが求めているゴールに辿り着いたとき、すごくやりがいを感じた」
「看護師として過ごす日々は、患者さんごとに異なる治療目標との向き合い方から多くを学ぶ機会があります。患者さんは、”完全に回復して家に帰ることを願う人”もいれば、”病気の進行をなるべく遅らせたいと希望する人”もいます。このような多様なニーズに応じて、患者さん一人ひとりに合わせたアプローチを考えることは容易ではありませんが、大きなやりがいを感じる瞬間でもあります」
津端が勤めていた総合病院では、一人の看護師が一人の患者さんを担当するプライマリー制を採用していた。
看護師がシフト制で勤務する中、この制度は効果的に機能し、チーム全員で患者さんの情報を共有し、一貫したケアを提供することを可能にしている。
「治療後に再び入院する人もいれば、一人暮らしを望むもののそれが困難な状態の人もいます。それぞれの患者さんが目指す生活を実現するために、彼らの価値観を尊重しつつ、どのように目標に近づけるかを模索することが看護師にとってとても大切だと感じます」
ボクシングを始めたきっかけは「ダイエット」
練習中の様子 【写真:町田】
津端がボクシングを始めたきっかけは、ダイエットだった。
ハワイ旅行で水着を着るために「痩せよう!」と決意し、その際に体重計に乗ったところ人生で最も重い体重を記録してしまった。
「普段着ていた洋服はサイズが合わなくなり、白衣は腕の部分が特にピチピチで着るのが大変でした(笑)」と津端は笑いながら話した。
ダイエットのために、フィットネスジムに通い始めたものの、なかなか継続できず、より強いモチベーションで続けられるものを探していたところ、自宅の近所にボクシングジムがあることを知り、入会を決めた。
ジムでのトレーニング中、対抗試合が行われる機会があり、当時のトレーナーに「ボクシングの素質がある。試合でそのセンスを活かしてみないか」と勧められる。
いきなりの公式試合参加は気が進まなかったものの、対抗試合ならば挑戦してみようかと考え、初めてリングに上がることを決めた。
初戦の相手は全日本女子選手権で優勝経験のある選手、圧倒的な強さの前に激しく打ちのめされた。
「有り難い経験なんですけど、試合後は頭痛に苦しんだことが今でも鮮明に記憶に残っています(笑)試合が終わって自宅に帰ってからもずっと痛くて….。あの痛みはこれまで経験した中で一番強烈で痛かったです」と津端は笑いながら話した。
その後、普段の練習メニューを実践に近いものに変更していき、2019年初の公式戦となる全日本女子選手権に出場し優勝を果たす。
国際試合で学んだ「試合を勝ちに導くまでの難しさ」
2020年東京オリンピックアジア予選がヨルダン・アンマンで開催され、津端は韓国との対戦で初めての国際試合に挑んだ。
初めての国際試合、「これは大変なところに来てしまった」と感じる一方で、海外での初めての試合ということもあり、入場時からその雰囲気にわくわくしていた。
「 ”日本を代表して戦う自分” に誇りを感じ、心から興奮しました」
しかし、リング上では体格差がある韓国の選手との戦いが待っており、その試合は非常に厳しく、結果は0対5で敗れ、津端にとって大きな挑戦となった。
東京オリンピックアジア予選への出場は、病院から特別休暇をもらっていた。
「多くの人たちの応援とサポートに支えられ、試合を最後まで戦い抜く ”やるしかない” という強い意志が私を突き動かし、試合中は何度もパンチを受け、鼻血を流すほどでしたが、それでも諦めずに試合を完遂しました。ただ、病院から2週間の休暇をもらい、「頑張ってきて!」と背中を押され国際試合に挑んだので、試合での敗北に申し訳なさを感じました」
帰国後、フィジカルとディフェンスを強化するためのトレーニングメニューに特化し、1年間、国内で毎月行われる合宿に参加した。
「トップレベルの選手たちに自分なりに必死に食らいついていきました」
果敢に挑戦を続けた1年間の努力が実を結び、2021年にはロシア国際大会ミドル級に出場し、準優勝を果たした。
2022年、トルコで開催された女子世界選手権ライトミドル級に挑戦した津端は、「過去の敗北の中で最も多くを学んだ経験」として、この試合を挙げている。
試合前の準備は津端なりに万全にして挑んだものの、海外選手特有の予測しにくい攻撃スタイルに苦しめられ、思うような結果には結びつかなかった。
「 ”ただ攻撃するだけではなく、如何にして相手の攻撃をかわすか” という防御の重要性を改めて痛感しました」
実際、ボクシングは相手との殴り合いだけではなく、どれだけ相手のパンチを避けられるかが勝敗を左右する。
さらに、試合を勝ちに導くまでの難しさを感じさせる重要な要素として、ジャッジの判定傾向という外部要因も戦略に大きく影響する。
「選手間の技術的な相性だけでなく、ジャッジの評価基準という別の種類の相性も戦いの重要な要素であることを再認識しました。試合を勝ちに導くまでの難しさは依然として大きな課題です」と試合を振り返った。
後編はこちら
津端 ありさ / Arisa Tsubata
埼玉県狭山市出身。2018年ダイエットの一環としてボクシングを始め、才能を開花させ、2019年初出場した全日本女子選手権で初優勝を果たした。2020年東京オリンピックアジア予選に出場を果たすが、新型コロナウィルス感染拡大の影響で東京オリンピックが1年延期。2021年東京オリンピックへ出場を目指すが、コロナ禍の影響で大会が中止になり、夢への道を断たれる。しかし、その後国立競技場で開かれた開会式に抜擢され、「看護師ボクサー」として注目を集める。
machida 編集者
デジタルクリエイティブ会社に勤務。女子サッカーで15年間活動した後、現役引退後ボディーメイクに奮闘中。自分に合った健康的な食事や日々の過ごし方を模索中。